チョンミョンソク牧師 裁判の詳細(2009年に10年の懲役刑判決)ーカルト摂理の教祖と呼ばれた人

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あまり知られていないチョンミョンソク(鄭明析)牧師の裁判。2009年に10年の判決が出た経緯を詳しく掲載しました。

この記事はamazonで販売中の書籍<命の道を行くー鄭明析牧師の歩んだ道>における鄭明析牧師の裁判の部分を参照・再構成したものです。

目次

裁判に至るまで

否定的なイメージ

チョンミョンソク牧師による聖書の教えは、徐々に人々に受け入れられていき、1998年にはキリスト教福音宣教会の会員数は十万人を超えていた。

一方で、否定的なイメージを持たれるようにもなった。最初は、ある女性に関する事件の報道によってであった。その事件が起こったのは1999年。

その日、宣教会の会員と一緒に車に乗ってチョンミョンソク牧師の故郷に向かっていた女性が、走行中の車から突然降りて走り出した。一緒に車に乗っていた会員が驚いて、危ないので追いかけて車に連れ戻したのだが、その後彼女の友人が警察に通報し、彼女は「拉致された」と供述した。

宣教会によると、女性はかつて宣教会の会員だった。当時は宣教会と距離を置いていたが、他の会員たちとの交友関係は続いており、彼女の父親が知人の保証人になっていたことによって家を失った時には、宣教会の会員たちが積極的に手助けしたという。

事件当日、彼女の方から友人の一人であった宣教会の会員に電話があり、「会いたいから来てほしい」と言うので会いに行ったところ、「気晴らしも兼ねて月明洞に行こう」という話になったため、一緒に車に乗って向かう途中であったという。
(月明洞はチョンミョンソク牧師の故郷であり、自然聖殿がある場所)

なぜ彼女は突然、このような行動をとったのか。その理由は不明だが、女性が報道に対し、「チョンミョンソク牧師が1999年に地球は滅びるという教えを伝えている」と 述べたことも、火に油を注いだ。ちなみに宣教会の教義に「1999年に地球は滅びる」という内容は、一切なかった。

国外逃亡?

こうした経緯もあって、チョンミョンソク牧師が1999年からヨーロッパなど海外へ出て活動し始めた時、韓国のマスコミ各社はそれを「国外逃亡」と表現した。折しもこのころ韓国では、宣教会を脱会した女性数人が、チョンミョンソク牧師を相手取って民事・刑事の告訴を提出しており、それを免れることが出国理由であるかのように表現された。

実際は、チョンミョンソク牧師は2001年に韓国に帰国して取り調べを受け、晴れて「嫌疑なし」と判断が下されたところで、出国していた。ところが、その後も騒ぎが静まらなかったことに加え、そのころ宣教のために世界各地を動き回っていたチョンミョンソク牧師の所在がなかなか掴めないことも災いして、韓国警察の要請によりICPO(国際刑事警察機構)がチョンミョンソク牧師を「国際指名手配」にして所在を捜し始めた。これによって韓国メディアは、ますます国外逃亡であるかのような報じ方をした。

チョンミョンソク牧師 海外でのできごと

ある時、チョンミョンソク牧師が海外の人たちと歓談しているところへ、複数の男がカメラを回して押し入ってきた。突然のことに怯える人たちを守ろうと、とっさにチョンミョンソク牧師がカメラを押しのけたシーンが、編集されて暴力的に見えるように映し出された。

「海外で女性に囲まれて暮らしている」などと言われたチョンミョンソク牧師だが、実際の生活は全く異なっていた。この時期チョンミョンソク牧師は、イエスの十字架による救いについて考察した 「救いについて」をはじめ、多くの著作を執筆していた。また、早朝礼拝用の説教映像を撮影し、各国に毎日送るなど、多忙を極めていた。

ある時イタリアで宣教していたチョンミョンソク牧師を訪ねた日本人の一人は、チョンミョンソク牧師が滞在するミラノ郊外の借家に行った際、山と積まれた執筆中の原稿を見たという。高さにして1メートル以上あったため、「さすがに白紙もあるのではないかと思ってめくってみたが、すべて文字で埋めつくされているのを見て驚いた」と語っている。

日本人が起こした「韓国で」の民事訴訟

2000年には、突然一人の日本人女性が、なぜか韓国で民事訴訟を提起した。

この女性は1995年ごろ日本の宣教会で聖書の教えを学び、5年ほど籍を置いていたが、1997年に韓国のプサンでチョンミョンソク牧師からわいせつな行為を強要されたと主張。訴訟を起こしたのは2000年に入ってからであったが、「洗脳が解けて今になった」と述べている。

女性は初め、他の韓国人らと共に刑事事件として訴えようとしたところ受けつけられず、民事で訴訟を起こした結果、一部の主張が認められ、 賠償金の支払いが命じられた。この女性は当時、宣教会を目の敵にしている「エクソドス」という団体の幹部の韓国人男性と交際中であったが、裁判後に結婚している。

彼女と交流の深かった人の話によると、「彼女は反対団体によって、親の了承のもと軟禁されたことがあり、その後から宣教会を悪く言いふらすようになった」という。彼女は民事訴訟後、「日本人被害者」として韓国でテレビ出演、日本でも記者会見を開いて、その主張 は週刊誌に掲載された。なお、この民事訴訟は、チョンミョンソク牧師不在のまま行われたものだった。

また、宣教会に大学生をはじめとする若者が増えるにつれ、信者を奪われたとでも感じたのか、伝統的なキリスト教界からも宣教会を「異端だ」と言う声が強くなっていた。

統一教会と摂理の関係

日本での宣教会の活動にも、徐々に影響が出始めた。日本では当時、韓国の宗教と言えば金銭トラブルなどのイメージが強く、宣教会も亜流であるかのように報じられた。しかし、統一協会は原理講論を教えるが、宣教会は聖書をもとに教えており、教義は異なる。双方とも「互いに何の関係もない」と明言している。

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こうした誤解に加え、オウム真理教が1995年に地下鉄サリン事件を起こしたことで、「新興宗教は怖い」という印象が日本人の心にすっかり刻みこまれていた。 このような風潮では宣教を進めていくことが難しいと考えたある日本人会員がチョンミョンソク牧師に相談すると、次のような言葉が返ってきたという。

「聖書を正しく教えなさい。知らないから騙されて、非正常に走る。溺れてはいけない。信仰を持っても、溺れてはいけない。職場に通い、学校に通い、正常な日常生活を送って、その上でより高い理想を持ち、より良く生きるための信仰だ。正常な生活を崩すことは、 神様が望むことではない。正常なことが一番だと教えなさい。」

その会員によると、その言葉に従って進めていくうちに、日本でも信仰に対する誤解が解けて、受け入れる人が増えていったという。

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法廷闘争の行方

ソウル市瑞草区にある、ソウル中央地方裁判所。日本の東京地裁にあたるこの法廷で、チョンミョンソク牧師に対する公判が、2008年3月から始まった。細かな経緯は後述するが、チョンミョンソク牧師は中国に滞在している時に身柄を拘束された後、嫌疑なしで解放されたが、 その後韓国に移送され、改めて刑事裁判を受けることになった。

裁判長が公判の開会を告げ、検察官が裁判で争うチョンミョンソク牧師の嫌疑内容を読み上げた。 内容は、チョンミョンソク牧師が中国などで複数の韓国人女性信者に対して性的被害を加えた、というものだ。

続いて裁判長は、チョンミョンソク牧師の弁護人に意見を求めた。
「チョンミョンソク牧師が読み上げられた嫌疑を行った事実は、ありません」

2009年4月まで及ぶ法廷闘争の幕が、こうして開けた。

1999年 韓国テレビ局で報道(報道内容は後に裁判所から損害賠償命令)

経緯は、チョンミョンソク牧師が海外宣教を活発化させた1999年にまでさかのぼる。

宣教会に反対する前述のエクソドス(以下「反対団体」)が「多くの女性信者がチョンミョンソク牧師から性的被害を受けている」と主張し始め、韓国のあるテレビ局(S放送局) がこれを取り上げた。

反対団体の主張を鵜呑みにして報じたこのテレビ局は、後に宣教会から訴えられ、 最終的に裁判所から損害賠償命令を受けることになるのだが(後述)、放送で取り上げられたことで勢いづいた反対団体は、続いて「外国を舞台とした性的被害があった」と主張し始める。

2008年の刑事裁判の対象となったのは、まさに外国が「犯行現場」とされたケースだった。

一般に刑事裁判では、嫌疑の真偽や、(それが事実ならば)悪質性などについて、法廷に提出された証拠に基づいて審理される。被告人が嫌疑内容を認めている場合は、被告人の供述を軸に、それを裏づける証拠を捜査機関が集め、裁判所に提出する。

特に、実行犯でなければ知り得ない情報(例えば凶器の隠し場所など)が被告人の供述から得られた場合、「秘密の暴露」と呼ばれて重視される。

一方、被告人が嫌疑内容を否認している場合は、法廷の場で、無罪を主張する被告人(またはその代理人、弁護士)と嫌疑内容を立証する検察官とがそれぞれ証拠を示して、裁判官に判断をゆだねることになる。

チョンミョンソク牧師の裁判は、後者にあたる。

検察は物的証拠提出できず

第二回公判以降、嫌疑内容の事実認定を巡る、検察側と弁護側のつばぜり合いは本格化した。

検察側は、犯罪事実の動かぬ証拠となる「物的証拠(物証)」を提出できなかった。嫌疑内容の現場がすべて国外のため、韓国警察が現場検証などの捜査を十分に行えなかったためだ。

<中国公安当局は現場検証を行っている。その結果「女性たちの供述内容は、実際の現場と合致しない」として、チョンミョンソク牧師による婦女暴行の容疑は認められないと判断した。>

韓国裁判では日本の「週刊ポスト」と「週刊文春」に掲載された文章が「証拠」としてなぜか採用された

検察側は、現場にいた関係者の証言をはじめとする状況証拠をもとに、有罪との心証を裁判官に訴える展開となった。

検察側が証拠として示したのは、被害女性の証言と、日本の週刊誌二誌に掲載された記事内容だった。この時に証拠として採用された日本の週刊誌は「週刊ポスト」と「週刊文春」だが、書かれているのは、チョンミョンソク牧師が宗教団体の教祖という地位を 乱用して信者の女子学生らに性的関係を迫ったという内容だった。

日本の裁判では、写真週刊誌に書かれた記事が証拠として採用されて、司法判断に景響を及ぼすようなことは、まずない。情報の出どころが不確かな証拠を排除し、 厳格な手続きの下で集められた出どころの確かな証拠だけをもとに、事実を認定するからだ。

ちなみに週刊誌二誌の情報元も反対団体で、記事中に登場する日本の元女子学生には、前述した反対団体幹部の配偶者となった女性が含まれていた。

日本の刑事司法制度を少しでも知っている人間の目には、すこぶる奇異に映るであろう「週刊誌記事の証拠採用」だが、後に二審の高裁で裁判長が週刊文春を、「文春という権威ある出版物」と表現しており、日本の週刊誌報道を信憑性があるとみていたふしがある。

中国公安当局の調査では鄭明析牧師は「嫌疑なし」、無罪と断定

対する弁護側は、「いずれも事実無根」として反論を展開した。チョンミョンソク牧師は2007年5月、性的被害を受けたという2人の訴えにより中国で拘束されたが、中国当局 から「嫌疑なし」とされ、刑事裁判を受けることなく、2008年2月20日に韓国に送還されている。弁護側はこの点を指摘し、「中国公安が十か月も追及しなが ら、嫌疑なしと判断されたことは、犯罪事実がないという何よりの証拠」と主張した。

また、中国公安当局が「事件性なし」と判断した根拠となった、暴行の形跡がないという診断書などの資料を病院から入手し、証拠採用を訴えた。そして証拠採用 された日本の週刊誌二誌については、宣教会の活動に反対する団体の主張のみで記事が書かれていると指摘。「わいせつ写真やゴシップ記事が中心の写真週刊誌が証拠にはなりえない」と、証拠能力に疑問を呈し、強く反論した。

現場を検証した中国当局がチョンミョンソク牧師を取り調べながら「嫌疑なし」としている事実には、十分な説得力があり、公判が続く中、宣教会側は、裁判所であれば事実を正しく見て無罪判決を出すだろうという「淡い期待があった」と振り返る。

検察側が立証の柱に据える被害女性の証言についても、ほころびが見えていた。 中国・鞍山市(あんざん)で性的暴行を受けたと、韓国人女性二人が中国の公安当局に訴え出たのは、2006年4月3日。

だが、その2日後に女性の1人を診断した鞍山市中央病院は「性的暴行を受けた形跡なし」と診断した。当時女性の通訳を務めた公安担当者も、後に報道取材に対し「医師が異常なしと伝えていた」と証言している。

この女性は、その三日後の八日に韓国の警察病院を訪れ検査を要求、「処女膜に 全く損傷がない」と診断されたが、さらに二日後の十日の検査では「処女膜に小さな傷がある」との診断を受けた。

もっとも、担当医師は法廷で「自転車に乗っても発生しうる傷」と陳述している。患部の写真撮影などは行われていなかった。

それでも女性2人は18日に記者会見を開き、報道陣に「当時は歩行が困難になるほど深い傷を負った」と訴えたのだが、チョンミョンソク牧師の弁護人がカメラの映像を確認したところ、事件当日暴行を受けたと主張している時刻のすぐ後に、笑顔の二人が普通に歩いている姿が映っていた。

女性側の証言「性的暴行を受けていない。告発者の指示で、嘘の提訴をして偽証してきた。」

そのうえ訴えた女性のうち一人は、裁判が続く中、母親と共に裁判所を訪れ、次のように話して刑事告訴を取り下げた。

「実際、私は性的暴行を受けておらず、もう一人の女性も、性的被害を受けたことはありません。ある告発者の指示で、嘘の提訴をして、今まで偽証してきました」

韓国でキリスト教福音宣教会を異端視している伝統的キリスト教派が裁判官の中に複数含まれていた

それでも宣教会側の懸念は尽きなかった。 理由の一つは、チョンミョンソク牧師に関してのスキャンダラスな報道がすでに数多くされており、裁判官の心証への影響が危惧されていたことだった。

いずれも後に誤報であることが明らかになるが、公判当時は正当性を主張し続けるメディアもあり、視聴者にも報道のインパクトが強く残っていた。 もう一つの理由は、韓国で宣教会を異端視している伝統的キリスト教派の長老(キリスト教教会での職階の一つ)が、複数、裁判官の中に含まれていたことだった。

韓国統計庁の2005年の調査によると、プロテスタントとカトリックを合わせた韓国内の伝統的なキリスト教派の信者数は、総人口の約3割に達している。国会議員にも牧師や長老が多くおり、 代表格の重職者は大統領との会合も持つなど、政界や経済界、法曹界にまで多大な影響力がある。

懸念を裏づける兆候も出ていた。公判で弁護側は、中国の病院から入手した診断書を証拠として採用するよう要求したのだが、「入手ルートが正規の外交手続きを踏んでいない」と検察側が主張し、裁判所が証拠採用を認めなかったのだ。

裁判官の言葉「一般のサラリーマンであれば無罪」「被告人が異端指導者ゆえに、被害女性に対して優位的な地位にある」

果たして、宣教会の不安は現実のものとなる。2009年2月、約1年に及んだ 裁判を事実上終結させる高裁判決が下された。

「被告人は前へ」

促されて証言台に立った鄭氏に、裁判長の乾いた声が投げつけられた。

「主文、被告人を懲役10年に処する」

裁判長は続けて、判決理由を読み上げた。

「嫌疑内容に対する物的証拠はない」

「一方で、被害女性の証言や、日本の週刊誌報道には信憑性がある」

「鄭氏(チョンミョンソク牧師)は宗教指導者であり、信者である被害女性に対して優位的な地位にある」

「以上の理由から、鄭氏(チョンミョンソク牧師)の女性暴行について事実があったと認定する」。

物証が乏しい中、裁判官は検察側の証拠や被害者の証言に、より信憑性があると結論づけたのだった。

裁判長は、「証拠があるとかないとかということが問題ではない。被告人が異端の指導者であり、女性は要求に逆らいづらかったのではないかということだ」と述べた。

「一般のサラリーマンであれば無罪だが」。

筆者は、裁判長がそう言ったのを記憶している。

判決理由にじっと耳を傾けていたチョンミョンソク牧師は、裁判長から「最後に何か言いたいことはあるか」と問われると、次のように答えて一礼した。

「裁判長、何はともあれ、女性たちの主張を聞き届けてくださって、ありがとうございます。子供のころ妹とケンカした時、妹が悪いのに、母親は妹の肩を持ちました。私は疎外感を覚えましたが、たとえ妹が間違っていたとしても、誰かが味方になって守ってあげなければならないという、その親心を、今は理解できます。この判決は、私にとっては不本意ですが、裁判長が母親のような立場で女性たちをかばったのだと思うので、それに対しては感謝を述べたいと思います」

同年四月、日本の最高裁にあたる大法院はこの二審判決を、「裁判官の心証に従って判断を下した」として支持し、宣教会側の上告を退けた。チョンミョンソク牧師の懲役十年の刑が確定した。

日本では、全国紙でも、朝日新聞が「懲役十年確定」というミニニュースを社会面の片隅に掲載した程度だった。証拠採用された週刊誌二誌には、掲載もされなかった。

チョンミョンソク牧師の獄中生活

こうしてチョンミョンソク牧師の約十年に及ぶ獄中生活が始まった。

判決確定から3年が経過した2012年春ごろ、裁判について改めて検証しようとの機運が韓国メディアを中心に起こり始めた。

反対派から続く告訴は全て「嫌疑なし」

収監されて以降も、2012年に脱退者が十数件もの告訴・告発を行うなど、反対団体による強引な告訴は続いていたが、検察が順次「嫌疑なし」との結論を出していくにつれて、裁判についても信憑性を疑うメディアが出てくるようになった。

「これは、証拠採取主義による正当な司法判断ではない」。韓国の経済雑誌ニュースメーカーがそう口火を切ると、「事実と異なる一方的な裁判」(ニュースエンジョイ)、「裁判官の自由心証で下された判決」(政経ニュース)などの意見が相次いで出された。

司法関係者からもあがる疑問の声

司法関係者からも「法律はすべての事件に適用されるものなのに、本件についてのみ当てはまらない」(韓国高等裁判所主席裁判官)との意見が寄せられた。ある韓国の司法官は、チョンミョンソク牧師を巡る一連の裁判の経緯について意見を求められると「韓国司法の恥だ」とまで言った。

こうしたマスコミの姿勢は公判当時の報道とは正反対で、なぜ当時は裏づけ不十分な報道がまかりとおったのか疑問が残るが、特ダネをはじめとするニュースの速報性、独自性を重視する、報道機関の「企業体質」も遠因とされる。

発端となったのは、先に言及したS放送局(以下S局)が1999年、反対団体の主張に沿った番組を制作したことだった。

「根拠のない報道」裁判所は賠償金支払いを命じる キリスト教福音宣教会勝訴

2005年、裁判所はS局に対し「その反対団体の情報を報道しないよう」勧告、2010年には、最高裁にあたる大法院がS局に「根拠のない報道により宣教会の名誉を傷つけた」として、宣教会へ九千万ウォンの賠償金を支払うように命じた。

しかし1999年当時には、まだこうした裁判所の判決が出ていなかったため、報道各社はS局の報道をきっかけに、視聴者や読者の注目を引きやすい女性の性的被害事件という疑惑について、先を争って報道しようとした。

このような過程で、裏づけなしの報道が横行していったようだ。

TV朝鮮が、2014年に放映した番組についての謝罪文で「あくまで不備な事実確認により、マスコミ他社の間違った報道を引用したために発生した、制作陣のミス」であったと述べているが、この表現から、各メディアが事実確認をせずに「他を引用して」報道することによって、誤報が量産されていった様相が見てと れる。

反対団体による根拠のない情報提供が活発に行われたことが、こうしたマスコミ需要を下支えする格好となった。マスコミ側にも、被害を訴える女性を前に 「かわいそうな女性たちを救わねば」という空気が醸成されていた。

政経ニュースは一連の状況について、「被害者を保護するとの名目でしたことが、かえって大勢の被害者(宣教会と会員)を生み出した、皮肉な状況だ」と分析している。

10年の判決 チョンミョンソク牧師の言葉

十年の判決が言い渡された後、鄭氏は次のように祈った。

「私を敵視し憎む人たちが、飢えることがあったら食べさせ、着るものがなかったら着させ、寝る所がなかったら休む場所を与えてください。私はどんな害を受けても忍耐し、神様の仕事をいたします」

チョンミョンソク牧師の身が十年も囚われの境遇になると聞いた時、宣教会の会員たちは悲しみに暮れた。この時、チョンミョンソク牧師が獄中で積み重ねていく新たな挑戦について、予想した者は一人もいなかった。

塀の中、チョンミョンソク牧師は一坪にも満たない閉鎖された空間で、夏は四十度を超える酷暑、 冬は零下に下がる極寒に耐えなければならなかった。 自由は制限され、偏見の目で見られ、様々な罪を犯して収監された荒くれたちに 囲まれて生活する。そんな状況に置かれていても、チョンミョンソク牧師は悲嘆に暮れることはしな かった。礼拝説教を書いて送ったり、手紙のやりとりをしたり、本の執筆をすることもできたからだ。

かつてチョンミョンソク牧師が中国で公安当局に10カ月間拘束された時には、言葉も通じない中、何が起きているのか、生きて帰れるのかさえ分からなかった。

祈りを続ける中で神様の言葉や悟りが次々と頭に浮かんできたが、そこでは紙一枚、ペン一本すら手に 入れることは不可能だった。

「紙とペンさえあれば書きとめられるのに、もったいない!」。

そう思った時、「脳に記憶しなさい」という声が感動で伝わってきた。それに従って、「いつか書ける 時が来たら書こう」と思いながら、記憶に留めようと必死に覚えた。その時を思い返せば、今置かれている現実がどれほど劣悪だとしても、紙とペンがあって思いきり書くことができるというだけで、心の底から感謝できた。

神様の言葉を記録して人に伝えることを、チョンミョンソク牧師がどれほど大切に思っているか、 よく表しているエピソードがある。

「裁判が進む中、弁護人との面会の日、鄭氏(チョンミョンソク牧師)は裁判の話はそっちのけで、「これは 昨日書いたばかりの礼拝説教ですが、読んでみませんか?」と、満面の笑みで見せてきたという。

弁護人は「普通は皆、『弁護士さん、何とか助けてください』と必死で、すがってくるものなのに驚きました」と語っている。

収監中に会員たちへ送った手紙には、こう書かれていた。
「私は、監獄も天国の ように思って暮らしている」。

だがチョンミョンソク牧師がこうした境地に至るまでには、紆余曲折があった。

「神様、私を愛していますか?」

10年の判決を言い渡され、いざコンクリートに四方を囲まれた一畳ほどの空間に閉じ込められると、気持ちが押しつぶされそうだったという。

思わずチョンミョンソク牧師の口をつ いて「神様、私を愛していますか?」という言葉が出たそうだ。

すると胸が詰まり、涙が頬を伝った。言った瞬間、神様が自分をどれほど愛しているのかが、苦しいほど感じられたからだ。一瞬でもその愛を疑ったことが情けなく、申し訳なくて、 とめどなく涙があふれたという。

「幸せとは何か。永遠な幸せでなければ、幸せと言えない。永遠な幸せとは、神様を愛し、神様に愛される喜びだ」。チョンミョンソク牧師はこの時の思いを「私は幸せだ」という詩につづり、曲を作って歌にした。

祈りと執筆活動の10年

チョンミョンソク牧師はそこで過ごすほとんどの時間を、祈りや執筆活動に費やした。一坪もない 部屋から、多くの著作が生まれた。2008年に収監されて以降、韓国でベストセラーを記録した詩集「詩の女人」をはじめ、箴言集、説教集など六十三冊の本を出 版した。

執筆を終えて出版待ちの本まで合わせると、その数は八十四冊に及ぶ。詩人としての活動が認められ、2011年に発刊された「韓国詩大事典」には、韓国詩史百年を代表する詩人として、鄭氏の名前と共に十編の詩が収録されている。

収監中の母の死

収監中、チョンミョンソク牧師の母親は寝たきりの状態であったが、生きて息子にひと目会うことに望みをかけて、待っていた。鄭氏も、母親が息をしているだけでもいいから生き ていてほしいと願い、再会を望んでいたが、2015年2月、とうとう会えぬまま別れを迎えた。

最期の時、刑務所の配慮により、チョンミョンソク牧師は母親に電話で語りかけることができた。「お母さん、天国で会いましょう。さようなら」。母親にかけた、最後の言葉だった。

10年の刑を終え、出所

ついに10年の時が過ぎた。 その日、チョンミョンソク牧師を乗せた車は、彼の故郷に向かっていた。

テジョン刑務所からさほど遠くなく、車で1時間ほどの距離だ。故郷では家族も待っていた。

17年ぶりに訪れた故郷は静かだった。故郷のタルバッコルは開発され、今は 「月明洞(ウォルミョンドン)」と呼ばれている。宣教会の会員たちが殺到して混乱に陥ることを避けるため、その日は立入禁止になっていた。

月明洞は高所にあるので、車が坂道を登っていく。途中「御子愛の家」の前で、 チョンミョンソク牧師は車を降りた。「御子愛の家」は、チョンミョンソク牧師が塀の中にいる間に建てられた三階建ての建物だ。

月明洞には数千人が座れる芝生の「自然聖殿」があるが、以前は日差しや雨を避けて大勢が入れる建物がなかった。

しかし2013年に「御子愛の家」が建てられてからは、千人規模の礼拝を室内で執り行ったり、訪問者が食堂で食事をしたりできるようになった。

礼拝堂で祈りを捧げると、チョンミョンソク牧師は母親の墓へ足を向けた。夕刻だった。母としばし無言の対話を交わした後、振り返ると、坂の下の駐車場で赤いライトが点滅しているのが見えた。

会員たちが車に乗ってチョンミョンソク牧師に会いに来たのだ。
「10年という長い歳月、私を待ってくれていた人たちだ。会わなければ」。
チョンミョンソク牧師は彼らを呼んだ。

待っていた人たちの中には、チョンミョンソク牧師が塀の中にいる間に教会に通い始めて、初めて会う人も少なくなかった。判決後に宣教会を出ていく人たちもいた一方で、逆境に屈せず歩みを止めないチョンミョンソク牧師の姿に感銘を受ける人もおり、ある層の期待とは裏腹に、 宣教会の会員数は十年の間も確実に増えていた。

刑務所内でも、初めはチョンミョンソク牧師のことを異端の教祖、犯罪者として扱っていた看守たちが、日々のチョンミョンソク牧師の生活を見ながら、数年かけてチョンミョンソク牧師への態度を軟化させていったという。

「信仰は理論ではなく生活だ」とはチョンミョンソク牧師が日ごろ口にしている言葉であるが、監獄という特殊な状況にあって、生活を間近で長年見ていた彼らには、言葉よりも雄弁に語る何かが感じられたのかもしれない。

「苦労するとしても、命の道*を行かねばならない」
(*公善の道、死ではなく生きる道、また人を生かす道)

それがチョンミョンソク牧師の座右の銘になった。

参照:命の道を行くー鄭明析牧師の歩んだ道

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