<自分の予測と推測>どおりに行なったら間違うことが多いです。
バラムが自分の考え通りに予測してしまったこと
旧約聖書 民数記22章21節以下を読むと、バラムが神様のおっしゃるとおりにしないで急いで行く途中、<バラムが乗っていたロバ>が急に道から離れて畑に入って行きました。
それでバラムは自分の考えどおりに予測して、<ロバ>が言うことを聞かないと判断して、ロバを鞭打ちました。
しかし今度はロバが体を塀に当てて、バラムの足をその塀にこすりつけました。
それでバラムはもっと怒って自分の杖でロバを叩きました。しかし今度は完全に伏してしまいました。
それでバラムはまたロバを叩きました。
もしバラムに刀があったなら、その刀でロバを斬っただろうと言いました。
そこで神様が、バラムの目が開かれるようにし、分かってみたら、バラムの行ないによって神様が憤り、神様の御使いが剣を抜いて手に持って道の中に立っているのを見て、<ロバ>がそのようにしたのでした。バラムは霊的に実際の状況を確認して、心を翻(ひるがえ)して行動しました。
<自分の予測と推測>どおりに行なったら間違うことが多いです。祈って確認し、実際を確認し、霊的に目を開いて確認し、神様と聖霊様と御子主を中心にして確認して行なわなければなりません。
そうしてこそ過ちを犯さず、誤解せず、言葉や行動で兄弟を傷つけず、疎外感もなくなり、やることもちゃんとできます。
人々はなぜ予測をするのか?
人々は<予測と推測>をたくさんします。なぜそうするのでしょうか? 気になるからです!気になるから事前に「予測」し、「推測」してみるのです。
初めての道を行くと、その先の道はどうなのか推測してみるでしょう?
しかし行ってみたら、そのとおりの場合もあるし、違う場合もあります。しかし<予測と推測>は70%が「実際」と違います。
<予測と推測>は「自分の考えにすぎない」です。<予測と推測>は「実際の事実」ではありません。だから<予測し、推測したこと>で「決定」したら、たくさん過ちを犯します。
<予測したこと>で「決定」したら、それによって「大きな害」を受けることもあります。
鄭明析牧師が自分の考えで予測してしまったこと
私も<予測>をたくさんします。
主日になったら各教会はどういう様子だろうかと予測してみるし、皆に何か仕事を任せたあとどのようにしているのだろうかと予測してみるし、御言葉を書き終えて送ってからどんな反応だろうかと予測してみるし、皆を考えながらさまざまに<予測>をします。
なぜでしょうか? 気になるからです!
ある時、月明洞に手紙で、ある仕事を指示しました。
そして一人で「一日、二日あれば終わるだろう。二日後にはこのようにしたと手紙が来るだろう」と思いました。
しかし五日たっても何も連絡がありませんでした。
それで一人で<推測>をして、「ああ、働いているうちにつらくて休んでいるのだろうな。それでも一日、二日あれば終わる仕事だから、速くやればいいのに。あるいは、どのようにやっているのか、手紙でもくれればいいのに」と思いました。
<予測>したとおりに「判断」し、「決定」してしまいました。
ところが一週間あとに手紙が届きました。分かってみると、思ったより大変な作業なので、一週間ずっと休まずにやっているけれどもまだ終わっていないと言いました。<予測>と<実際>は違いました。
この他にも<私が予測したこと>を実際に確認してみて、試験してみると、<予測したことの70%>は違っていました。
みんなこれと同じです。
<肉界>でも「予測」で決定しないで「確認」し、<霊界>で見たことも必ず「肉界で確認」してみなければなりません。
気になるから<予測>してみるのですが、その「予測」どおりに「決定」してしまえば、無駄に心ばかり焦り、誤解もするようになり、疎外感も感じるようになり、不安でもあり、さらには害を受けることもあります。
予測して話し、行なっているうちに相手に被害を与えることが多く、人々を傷つけることが多いです。
だから必ず<確認>しなければなりません!<確認>のあとに分別し、判断し、決定し、行なうことです。
<2016年5月11日水曜日の御言葉>より抜粋
<主題>予測で判断するな
<本文>民数記22章21~35節
冒頭画像出典:レンブラント・ファン・レイン『バラムのロバ』1626年 コニャック=ジェイ美術館
《バラムとロバ》は、画家のレンブラント・ファン・レインによって制作された作品。制作年は1626年から1626年で、コニャック=ジェイ美術館(パリ)に所蔵されている。
引用:MUSEY