女が言いました。
「キリストが来たら全てを教えてくださる、と言いました。キリストはいつになったら来られるでしょう。」
イエス様が正確に教えたものだから、キリストが来たらこういうふうに正確に教えてくれると言ったけども、そのキリストはいつになったら来られるでしょう。既に来て教えていたのに、それには思いつかなかったのです。
「キリストが来られることを私ははっきりと信じています。その方はいつになったら来られるでしょう。イスラエル民族が待っているキリスト、メシヤが来るということを私は知って、私も信じて待っています。その方が来られたら、全てを教えてくださり、疑問に答えてくださるとおっしゃっていますが、いつになったら来られるでしょうか。」
それを聞いてイエス様が答えました。
「女よ、私がそれだ。」
それくらい受け入れたときには、自分のことを明かします。それくらい分かったときには自分のことを話すことができました。しかし、そうじゃないときには、まだその方について聞かないし、礼拝についても聞かない、愛についても聞かない人に、「キリストが来た、メシヤが来た、メシヤが来た」と言うのは、ちょうどいばらのところに種をまくのと同じです。春ではなく冬に種をまく人と同じです。理にかなった方法で御言葉を伝え、伝道するのです。
女の人はどんなにびっくりしたでしょう。
「ああ! この方だったのか。ああ、やっぱり違う。井戸端で。だから自信を持って、私が与える水を飲んだら渇かない、と言えたのか。」
命の御言葉だと悟るようになりました。この方についていくならば愛されるだろう、愛を受けるだろう。5人の男から愛されても満足できなかったけど、この方には真の愛があるだろう、と思いました。
私が与える水というのは、-女の人は真理にも渇いていたといえるし、愛に渇いていたといえます。5人の人と愛したけども満足できなかったから。こういう人を愛したら満足できるだろう。そうしたら、自分の精神的な愛、肉的な愛より精神的な愛を満足できるだろう、と思いました。
2006年11月12日 説教者:チョンミョンソク牧師

