どうして目的を定めて行うべきなのか
どうして<目的>を定めておいて行なうべきか、その核心を簡単にはっきり説明します。
<目的と目標を定めること>はちょうど家を建てる時や開発する時「設計図」を描いておいて、その設計どおりに家を建て、開発することと同じです。まず設計図を描かなくては、建築も開発も始めることができません。
船が広い海を航海するのに<目的>なしにただ行きますか?
そうしたら「目的地」がないので、ただあちらこちらへさ迷って、結局、海で漂流するようになります。
銃を撃つ時、<目標物>なしに、ただどこにでも撃ちますか?
<目標物>をはっきり!定めておかずに撃ったら、<視線>も、<精神>も、<行動>もすべてぼやけます。だから一日中撃っても当てられません。<目標物>を定めておいて撃ってこそ、<精神と考え>が明確になって集中し、当てるようになります。
バスケットボールやサッカーの試合をする時も、<ネット>を目標物として定めておいて、その中にボールを入れるでしょう?そうしなければ、<精神>も<行動>も分散して、試合が進行できません。
陸上や水泳の試合をする時も、<目標地点>を定めておきます。その<目的>に向かって<精神と考え>を集中して行なうようになります。
これと同じく、信仰も万事すべてのことも、<目的>を定めておいてやってこそ、<精神>も、<考え>も、<行動>も、<言葉>も、<生>もぼやけないで、はっきりします。<目的>を定めないで行なったら、<考え>もぼやけて、<行動>も正確でなく、だから<生>もぼやけるしかありません。
目的をもって行う人は何が違う?
<目的を持って行なう人>は「精神、考え、行動」が違います。
信仰もそうです。<目的を持って行なう人>は、<目的>を成すために、<目的>に合わせて祈り、御言葉を読み、行ない、<目的>に合わせて走って休まずに挑戦するようになります。
だから<目的を成そうとする人>は「言葉と行動」も違うし、「時間の使い方」も違います。
みんな「目的を定めておいて行なう信仰生活」をしなければなりません。「目的を定めておいて成す生」を生きなければなりません。「目的を成そうという考え」を持って行なわなければなりません。そうしてこそ、<考え>もおぼろげにならず、<行なうこと>も明確になり、<時間>も浪費せず、<走ること>も休みません。
人間は<目的>を持って考え、行なってこそ、「発展」します。<目的>を持って考え、行なってこそ、やせた地を開発したら変化するように、「一目瞭然」になります。
<目的>を持って行なう人は、ちょうど「山の頂上を目標に定めておいて行く人」と同じで、「他の方向」には行かなくなります。だから「時間」も「人生」も無駄遣いしません。大変でも「挑戦」するようになります。
<目的>を定めて研究し、行なって、強く生きてこそ、たくさん行なうようになり、早く行なうようになり、直すようになり、目的を成す喜びが絶えません。
目標を定めておかないとどうなるのか
運動場を走るのも「10周、あるいは5周回ろう」と<目標>を定めて走ってこそ、それだけやるようになります。
<目標>を定めておかなければ、やっている途中でやめます。
信仰も「どこまでやろう」という<目標>を持って行なってこそ、途中で中断しません。
感謝も、愛も、祈りも<目的>を持って行なえば、<考え>も、<行ない>も、<生活>もはっきりしてきます。
毎日<目的>を定めておいて、果敢に実行しなければなりません。
目的なしに生きる生とは
<目的なしに生きる生>は退屈で、大変で、つらいです。<目的に向かっていく生、目的を成そうと行なう生>はうれしく、希望があり、精神と考えが明確で、大変でも揺れることなく行なって、甲斐を享受します。
しかし人々は「どこ」に目的を置いて生きるべきか分かっていません。<成してからもなくならず、永遠に残って享受する目的>がなければなりません。
つまり人間が生まれた目的、「創造目的」です。神様と聖霊様と御子主と共に<創造の目的、引き上げ>に目的を置いて生きなければなりません。
創造目的参考1:人間が生まれた目的とは
創造目的参考2:じゅな牧師YouTube 自分の存在価値
2016年12月4日主日の御言葉
主題 目的を定めて挑戦し、行ないなさい
聖句 旧約聖書 詩篇108篇1節『神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。』
説教者 鄭明析牧師
より抜粋