「兄さん、いつ帰ってこられましたか?前の家に行ったんだって。」
「うん、若い人がとても気の毒だ。ああやって人生を送ると思うと、私の心がどれだけ痛くてかわいそうなのか・・・」
「兄さん、もしかして大家のおばさんから話を聞きましたか?ああなってから長くなったらしいし、できることは全部やってみたって言っていましたよ。もしかして後になってたわごとを言わないか心配していましたよ。世の中があまりにも厳しくて信じられない世のなかですから。」
「心配することはない。真実はどこでも通じるものだ。私はイエス様を信じる人としてその人生がかわいそうで気の毒でイエス様の心情で助けたいのであって、神様を信じるようにすることだから。
その人も救われなければいけないではないか?私が対価を願ってするのじゃないのに、何の問題があるだろうか?
仮に私に不利益になるとしてもそれが正しいことならすることが正しい。神様を信じる人がしなくてはいけないことではないか?あのような子供を持った親の心がどうだと思う?一生心に苦しみを抱えて生きるじゃないか?その両親の心を少しでも察してみたらそのようなことを言わないはずだ。」
「お兄さんの心はよく分かるんですが、おばさんの話のように長くなった病気なのでうまく治るでしょうか?」
「治るか治らないかは神様がなさることだ。私がどんな心で祈るか、保護者と当事者がどのように受け入れるかが問題だ。私は真実に愛する心で最善を尽くすだけだ。
祈る人が自分の子供のように思って本人のことのように切実に治ろうとする心で切実に祈ってあげないといけない。祈りもいろいろだ。
ただ義務的に形式的にしてあげる祈りがあって、本当に痛い人と一体になってその人の心情で痛みを共に感じて神様が治してくれると確かな信仰で切実に祈る祈りがある。
こうやって切実に祈る人がまさに主の心情で祈る人じゃないか?同じ祈りだとしてもその人の祈りを神様が聞いてくれるのではないだろうか?
特にあのような心の病をもったひとたちは、その人の心情を100%分かってあげて心情一体になってよくしてあげなければ心を開かない。愛で無条件よくしてあげないと、そうしないと信じない。
同じ医者でも患者が医者をはっきり信頼する時より効果があると言うだろう?科学が全部証明するじゃないか」
「はい、よく分かりました。ご飯は台所に準備して出勤します。」
(続く)