1998年5月24日 主日礼拝 主題:「もう行きなさい。私があなたの口と共にするであろう」より抜粋
旧約聖書 出エジプト記4章10ー17節
モーセは主に言った。「ああ、主よ。以前から、また、あなたが僕に語られてからでさえ、私は雄弁ではありません。私は本当に口の重い者、舌の重い者です。」
そこで主は彼に言われた。「誰が人に口を与えたのか。また、誰が口を利けなくし、耳を聞こえなくし、目を見えるようにし、見えないようにするのか。主なる私ではないか。だから行きなさい。私があなたの口と共にあり、あなたに語るべきことを教えよう。」
しかしモーセは言った。「ああ、主よ。どうか他の人をお遣わしください。」
主の怒りがモーセに向かって燃え、主は言われた。
「レビ人である、あなたの兄アロンがいるではないか。私は彼が雄弁であることを知っている。彼もまた、ちょうどあなたに会いに来ている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。あなたは彼に語って、言葉を彼の口に授けなさい。私はあなたの口と共に、また、彼の口と共にあって、あなたがなすべきことを教える。そうすれば、彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼にとって神となる。あなたはこの杖を手にして、しるしを行いなさい。」
今週の御言葉は、悔い改めたならもう行きなさい、ということです。皆さんも悔い改めているなら、行きなさいと言われています。
神様はモーセに言いました。「もう行きなさい。私があなたと共にするだろう」。それでもモーセは「基本のある人を送ったらいいじゃないですか。どうせ誰がやっても神様の仕事をやればいいのであって、誰がやるというのが大事なことですか。私は言葉が下手です。行きたくないから言うことじゃなくて。」と言ったときに、神様は「アロンが言葉にたけていることを知っているから、アロンが険しいところをやって、後でお前がゆっくり御言葉を伝えて、神様の仕事ができるようにしたい。アロンも既に私が準備をしておいた。私はお前を使おうと思っている。だから二人とも必要だ。」
二人とも使うというから、それ以上逃げられなかったのです。モーセが結局、自分の民に向かっていくようになったのが本文の所です。
「あなたがアロンの口に御言葉を伝えなさい。アロンがあなたの代わりに民に向かって言うだろう。その後あなたは少し話をして、顔だけ見せればいいんだ。」とまでおっしゃいました。そうしたとき、モーセがやっているとみんなが分かるからです。
そして「あなたは杖を持っているんじゃないか。杖は歩く時よろけないように与えたものではない。格好だけで与えたのではない。その杖を手にして振り回してみなさい。様々な出来事が起こるであろう。行って、直接やってみなさい。あなたが行ってみて行うとき驚くであろう。」
それで、モーセはエジプトで400年間苦しみを受けていた自分の民イスラエルの所に向かっていくようになったのです。「正直言って自信がありません。勇気が出ません」と言った時、もしモーセを送らなかったなら、その時代に誰を送ったでしょう。アロンはアロンとして必要な所がありました。モーセでなければ、送るべき人はいなかったのです。モーセはすでに選んだ人だったから、モーセでなければ行ける人はいません。そのために、宮中で40年間用意をしていたのです。
モーセが生まれた時には、イスラエルの人々は皆苦しみを受けていましたが、モーセだけは宮殿に入って苦労しませんでした。苦労しないで宮殿で育ったので、荒い世界に対しては弱い所もあったようです。
「私よりはあの人の方がうまくできます。」
「それじゃ荒っぽいことはその人がやって、もう少しやさしいことはあなたがやればいいじゃない。」
モーセは心情的な人で、アロンは肉的な人だったので、肉的な足場を作って突き進めることはアロンがやってくれればいいとおっしゃいました。だから今週の御言葉を聞いて、もう行きなさい、ということです。口が必要な時には口を使って、行動が必要な時には行動を使う神様です。皆さんという肉体の上に臨んで現れて働かれる神様です。私があなたの口に共にして話すだろう。私の言葉があなたの口にあるだろう。
モーセは自分の民族のためにずっと祈ってきた人です。民族的な人でした。そういう基本があって、その流れから大きな川を作った人です。皆さんは民族的な人ですか。このような御言葉を聞いているうちに、「どうせ一度生きる人生だから、力の限りやってみよう」と思うようになったんじゃないですか。そこから徐々に祈りを始めるようになったのです。
皆さんはなにかやる時意識してはいけません。人に会う時も意識してはいけません。
モーセは自分の足りなさを意識しました。もちろん足りないです。モーセは「私は言葉が下手です」と言いましたが、モーセが言葉が下手な事はだれでも知っています。「神様、私は愚かです」と言いますが、愚かだという事も皆知っています。
しかし、神様は「私があなたと共にするということを知っているのか」とおっしゃるんです。
私は山でこういう祈りをしました。
「神様、私は本当にあほで知恵のない者で、頭が悪いです。」
「そうだよ。知っているよ。誰がそうじゃないと言った?どうしてそういう話ばっかりする。あんまりそういう話ばっかりするから、頭が良いと言っているように聞こえる。誰がなんと言っても、あなたの頭が悪いってことは皆知っている。」
モーセもそうでした。
「私は舌が鈍いです。言葉が重いです。大胆ではありません。私は本当に足りない人です。」
それは誰でも知っているんです。神様が見てそれをわかっているんです。だから、そういう祈りはする必要ありません。
「神様、私が足りないところはご存知でしょう。しかし、足りない所を満たして下さると思います。」
神様は足りない所を満たして使って下さるんです。「私がいるから、私に任せなさい」という話じゃないですか。
私は自分の頭が悪いから、気を引き締めなさい、という意味で、石で頭をたたきました。そうしたら、もっと頭が悪くなる気がしました。(笑)
大体最後の言い訳は自分の力不足にします。
「神様、私は力がなくてできません。」
「それは私も知っている。」
「それでは、神様はどうして力のない人を使うのですか?」
「 それが私の御旨だ。私のもので、私の思う通りにするのだ。なんで聞くのか?」 こう言われたらどうするつもりですか?
「 神様、行きます。」
「さあ行こう。私が共にしてあげよう。多くの人たちがお前を見て、敬い、喜ぶだろう。ヤコブも行かないと言ったけど、私が一度蹴っ飛ばしてから、行くと言ったんじゃないか。」神様はヤコブに「あなたは民族的な家庭を作るだろう」と言いました。それでヤコブは12部族を作ったんじゃないですか。
ヨナも以前は小預言者で大した事なかったのですが、12万人を救う大きいことができるようになりました。
使徒パウロも以前はイエス様に食って掛かって迫害をしていましたが、一度折れてからは、一生の間イエス様の十字架の痕を述べ伝えました。
皆さんもそういう人にならなければなりません。皆さんもいつ死ぬか分からないのです。だからいつも果敢にそのような心を持って神様に栄光を帰して下さい。
今日、世界の皆さんもこのような心を持って、意識しないでやっていかなければなりません。
1998年5月24日 主日礼拝の御言葉より抜粋 説教者:チョンミョンソク牧師


