摂理(キリスト教福音宣教会)の広告塔と聞くと、芸能人、著名人などなどのイメージがあるのではないでしょうか。
摂理の広告塔って誰だか知ってますか?
摂理で「この人が広告塔」みたいに立てられた記憶はありません。
ですが仮説として、摂理で広告塔が立てられたと考えてみましょう。
広告塔の意味
1 企業や団体の宣伝のために目立つ所に設置された構造物。「ビル屋上の―」
2 企業や団体の宣伝の役割を担う有名人。「党の―として活躍する」「動く―」
引用:デジタル大辞泉
実際に広告塔がいた場合
摂理のメンバーである芸能人がいたとする。
摂理に勧誘・・・じゃなくて導かれた人に対して
「摂理にはね、こういう芸能人の人もいるんだよ。こういう著名人の人もいるんだよ。」
と伝えられたとする。
またはテレビや新聞等でそれを見たとする。
「わあ!摂理って凄いのね!芸能人も著名人もいるのなら安心だ!」
それで摂理に来た。
摂理の礼拝にも出るようになった。
はれて、摂理キリスト教福音宣教会の一員となった。
でもこれだと神様に対する信仰は長続きしないと思いますね。
来るきっかけになったりする場合はあるかもしれません。結果的に広告塔になった人はもしかしたらいるのかもしれません。
でも摂理では、キリスト教では「すぐに信仰を捨てること」は推奨されていません。
摂理の広告塔は私に何の影響も与えない
誰が摂理で広告塔になったとしても、私には全く影響を与えません。(むしろついていかない可能性のほうが圧倒的に高いw)
それは何故?
芸能人の追っかけや、著名人を本当に尊敬して人生の師とする方もいるかもしれませんが
私にはそれが全くないのです。
私が摂理に来る前に人生の師として思ってきた人はマザーテレサだけです。
マザーテレサが神様を愛するその姿に感銘を受けたのです。
芸能人も好きでしたし、著名人も尊敬しています。
でも「その人が好きなものは全部好きになろう」と思うほどではありませんでした。
だから摂理に広告塔がいても、私は摂理に来ることは絶対にありません。
むしろ、避けてたとおもいます(笑)
変に広告塔が立てられていたら、嫌なイメージもちませんか?
私は摂理にいる今でも、誰か広告塔的な人がたったら「イメージ悪くなるからやめてー。別に私、ついていこうと全然思わないし。」と考えることでしょう(笑)
信仰は商品ではないのですから。
摂理で誰かが立ったと仮定しても、それは摂理のイメージをよくするとか、多くの人達を勧誘(伝道)するとか、それには繋がりません。
摂理は1978年にはじまって40年が過ぎました。この40年間の間、広告塔が立って多くの人達が導かれた事例を私は知りません。
誰が摂理にいてもいなくても、最終的にはあまり関係ないんです。
広告塔をきっかけとして摂理に来ただけでは長続きしません。
みことばが摂理最大の広告塔だと私は思っています
みことば(御言葉)とは聖書の言葉、イエス様の言葉、教会で伝えられる言葉(説教)です。一言で言うなら神様の言葉です。
私は高校生の頃、聖書の話が分かりませんでした。明快に教えてくれる人がいませんでした。
摩訶不思議な聖書の話に疑いが募りました。
「人が生き返る?そんなわけないでしょう。死人が全員生き返ったらこの地球は壊れてしまう。」
「地球が七日間でできた?無理だよ、それ。」
でも一方でキリスト教徒は数20億人ともいわれていたから「世界中の人たちが信じてる聖書には何かあるはずだ」という思いは消えませんでした。
そうこうしてるうちに摂理の教会に来ました。周りの人たちがとってもいい人達でした。大好きでした。聖書のことがなくてもきっと大好きでい続けたことでしょう。
しかし。
大好きな人達がいるからといって、私は教会に通い続けるような人ではありません。
広告塔のために大好きな人達といるために、毎週日曜に御言葉を聞きますか?早朝から毎日祈りますか?果たしてそれが25年以上も続くでしょうか?
摂理の教会に私が25年以上、通っているのは紛れもなく御言葉があったからです。
そうでなければ、どうして一人になったとしても信仰を保ち続けられるでしょうか。
コロナ禍の2020年3月から、教会はオンライン礼拝になりました。感染防止の為に互いに会わない日々が続きました。
私個人は、2020年3月から約1年もの間。摂理のメンバーの誰にも会っていませんでした。たった1人だけ会ったというか、「見た」に近い人はいますが、それも2020年8月に30秒だけですw
このオンライン礼拝の期間は、礼拝を守らなかったとしても、私は誰にも管理されておりません。たったの一度も「りおさん、オンライン礼拝守りましたか?主日のみことば聞いてますか?」と聞かれてませんww むしろ「私を気にかけてくれ(笑)」とネタのように話すことはありますがねww
もし私が広告塔をきっかけにして摂理に来たとして、その広告塔の存在のお陰で、または親しい人がいるからという理由でい続けていたのだとしたら、私はコロナ禍で簡単に摂理の教会から離れたことでしょう。
摂理の御言葉は、難しいことが苦手で勉強を放棄していた(←)18歳の私でさえ理解できました。摩訶不思議だった部分が全部クリアになりました。
聖書でパウロ先生はこのように話しています。
あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
新約聖書 ペテロの第一の手紙1章23-25節
最後に残るものは御言葉に他ならないのです。
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