伝道、そのやりがいと苦痛ー私だけが歩んできた道より
蒸し暑い夏も過ぎ去り、雨粒がかなり冷たい季節が来てしまった。誰かが催促しなくても、秋雨は一日中降り注ぐのだ。この秋雨さえ止めば、寒くても田畑に出かけるのに、雨が止んでくれない。私の心の袋いっぱいに入れておいた福音の種が蒔かれる前に、心の袋の中でそのまま芽を出してしまうのではないかと心配になる。
天気がよくても田畑に行かなくては・・・と肉体のことであせる心よりも、むしろ福音の種を持って人の心の畑に出て行きたいという思いが湧き出てくる若き時だった。月日が過ぎ去り、年が変わることにも気付かず、日々伝道に出かけることだけが私の人生のすべてであり、生きがいであった。当時の私に大きな願いがあるとしたら、それは誰かがご飯さえ食べさせてくれるなら、一生をかけて伝道に出かけたいということだった。自分が救われた価値を真に悟り、命の貴重さを根本的に悟らない限り、伝道に出かけることは本当に難しいということを、私はその時深く悟った。
その時は私の思春期であって、雄牛のように農村であくせく働かなければならない時であった。農村だから一日も自由にさせてくれそうにないくらい家では忙しく、やるべき仕事があまりにも多かった。主日でも教会から帰ってきてからすぐに着替えて、必ず田畑に働きに出なければならなかった。両親がまだ伝道されていない時だったから、信仰生活を送るのが難しく、教会に行くことさえも機嫌を取らなければならなかった。ある時などは父親の雷のような怒鳴り声のために、教会に行くことがどれほど難しかったことか。まるで北朝鮮から亡命するくらいに難しい時もあった。
しかし私に限らず、7人の兄弟が、両親の反対で主日を守ることができなかったことはなかった、とはっきり記憶している。だが、主日礼拝に参加するためには、月曜日からたくさん働かなければならなかった。やることが山ほどあるのに、それでも教会に行くことは許されなかったからである。そのため日曜日が来るまで毎晩夜遅くまで働いたが、それでも農村ではやることが山積みだった。大人たちがよくする話の中に、死ねば働かなくなるという話がある。本当に田舎には死ぬまでにやるべき仕事があまりにも多い。冬になって雪が積もったら、やる仕事は少しは減るが、それでもなおやることは山積みだった。特に私の故郷は高麗人参、特殊作物を栽培する錦山地域だったので、手足を休める暇もなかった。
続く
伝道、そのやりがいと苦痛(2)ー鄭明析牧師
冒頭画像出典:鄭明析牧師公式サイト




投稿が見つかりません。



