鄭明析牧師の記録 鄭明析牧師の故郷の村ソンマンリにキリスト教が伝播された経路とは
これは私の2番目の兄で牧師であるチョン・クワンソクの証言。
ソンマンリは田舎だったので特別な遊びはなかった。主に花札をしていたが、それ以外にはチュンヒャンイ遊び(韓国の代表的な古典であるチュンヒャン伝の主人公の名前)という遊びがあった。この遊びは超自然啓示を受ける、一種の迷信的な行為だったけれども、一人の優れた人が呪文を唱えながら踊る儀式として行われるものであった。
ある日、村でその遊びを導いていた男の人がいたが、その人が呪文を唱えながら踊っている時、突然、「終末が来た、だからあなたがたは神様を信じなさい」と言いながら教会に通うように叫んだ。それでその話を聞いた村の人々は、神様とイエス様を全然知らないのに、その時から教会に通って信仰を持つようになったのだ。その時、私の一番上のお兄さんが19歳、二番目のお兄さんが16歳、そして私は13歳だった。その翌年が1958年であった。
1987年8月16日 鄭明析牧師
列車からの飛び降り自殺未遂ー鄭明析牧師
鄭明析牧師が歩んだ生涯の記録 私は人生にあまりにも疲れきって、大変で退屈で三回も死のうと思って、未練もなく自殺を試みたが、三回とも未遂に終わってしまった。一度...
こういうことも…私だけが歩んできた道(1)ー鄭明析牧師
鄭明析牧師が歩んだ生涯の記録 わたしが歩んできた道より 作成:1994年 軍隊を終えて、その次の年の9月の土曜日だった。その日は高麗人参の検査を受ける申請をするため...
サッカーが上手な人とは イ・ケイル牧師
777回のシュート 1980年代に鄭明析牧師が韓国の大邱地域に巡回に行かれました。いつも鄭明析牧師は巡回に行かれると、主日の御言葉を伝えられ簡単に食事をとって、午後...
私をどのように教えつくって下さったのか(1)ー鄭明析牧師
鄭明析牧師が歩んだ生涯の記録 わたしが歩んできた道より 作成:1995年 人はみんなそれぞれ自分だけの人生を生きている。私だけが歩んできた道はある面では栄光である...
伝道、そのやりがいと苦痛(1)ー鄭明析牧師
鄭明析牧師が歩んだ生涯の記録 伝道、そのやりがいと苦痛ー私だけが歩んできた道より 蒸し暑い夏も過ぎ去り、雨粒がかなり冷たい季節が来てしまった。誰かが催促しなく...
我が若き日の修道生活の日課(1)ー鄭明析牧師
ー鄭明析牧師が自身の若き頃、修道生活をしたときの話ー 昨日はたきぎを少ししか焚いていないせいか、明け方になる前に、既にオンドルが冷めて、むしろ私の体に助けを求...
死のうとすると青春が惜しく、生きようとすると苦労ばかり(1)ー鄭明析牧師
文献:「私だけが歩んできた道」より 日差しが焼け付くように照りつけ、地表からは熱い蒸気が、まるで蒸し風呂の戸を開けた時のように燃え盛る火となって立ち昇ってくる...
チョンミョンソク牧師「母は私の前で涙をたくさん流した」
人生を生きて、波瀾万丈の紆余曲折を経ていない人はいません。人々はよく「私ほど苦労した人はいないだろう」と嘆いたりします。お互いに人生の対話をしたことがありま...
「いつも泣いて人生を悲しんで嘆いていた。みんなが私を避けた。」鄭明析牧師
泣くからと言って、泣くことで終わってしまうのではなく、いつかその人が笑うようにもなるという事です。皆さんが悲しんでいるからといって、悲しみで終わってしまうの...
【鄭明析牧師とベトナム戦争】神様を信じていても苦労はする
ベトナム戦争に実際行ってみたら、すごい死の恐怖の中で大変だし、苦しかったんです。神様に祈ったんです。ここで生きて帰れるようにと祈ったんです。死の恐怖というの...
いつも心配していた青年 鄭明析牧師(前編)ー何故神様を愛するようになったのか
どうして私が神様を愛したでしょうか。私は飢えと寒さに悩み、いつも心配していました。何を食べたらいいんだろう、何を着ればいいんだろう、どうやって生きていけばい...
鄭明析牧師が人種差別について話された内容
ベトナムでアメリカ人と一緒に働いたことがありますが、その中には白人も黒人もいました。黒人たちはコンプレックスを持っていました。それで私が「肌がやわらかい」と...
鄭明析牧師がパラリンピックを見たときのこと
私の身内には障害を抱えた方がいらっしゃいます。 でも私はそれに対して何か気にしたことがありませんでした。 私が物心つく前からずっと接していたので、何か特別に思...
摂理の鄭明析牧師ー台湾有力紙 新新聞にて掲載
台湾の有力紙 新新聞に鄭明析牧師の記事が掲載された。 掲載された新新聞の表紙 鄭明析牧師の記事掲載部分 摂理教会ー詩人牧師が見た10年の鉄のカーテ...